快楽について (岩波文庫)

噂に聞いてきた、ヴァッラの「快楽論」の初めての全訳である。「快楽論」の特徴は、わかりやすいこと、内容が現代的なことである。すなわち、哲学的、神学的難解さは全くなく、時代的（１５世紀の本）難解さもない。特に第一巻後半と、第二巻のエピクロス主義的現世快楽賛美は、まるで現代人に向けて書かれたかのように面白い。もちろん、青年ヴァッラは当然にキリスト教徒であり、キリスト教世界の人間であるから、女体美賛美、現世の性欲愛欲賛美主張を堂々と肯定することはできない。本書は建前としては、第一巻前半で弁護士カトゥーネが高潔主義のストア派論述を展開し、第一巻後半と第二巻で詩人ヴェージョが現世快楽賛美のエピクロス的（ルネッサンス的？）主張を熱烈展開し、第三巻で、修道士ラウデンセが、現世快楽否定、来世美と来世快楽（死後快楽）礼賛のキリスト教的快楽説を展開するという形式になっている。そして、結末では、特に各主張に優劣はつけられていないが、著者序文では、古代異教批判、キリスト教共同体擁護の情熱に基づいて書いたと明示されており、第三巻が形式的結論となってはいる。しかし、実際には、ストア派主張はほんの２４頁で終わり、そのあと、ヴェージョの現世快楽熱烈弁論が、約２５７頁もあり、乗りに乗っている。しかも論理的である。すなわち、快楽こそが善であり、精神的快楽と、身体的快楽があり、これらの快楽をもたらしてくれるのが、外的事物の善である。財貨も快楽のために貯めるのでなければ無価値である。身体（特に女体）の美しさは、異性（特に男性）に身体的快楽をもたらす点において、外的事物の善である。そして、賞賛も、名誉も、精神的快楽であり、愛されることも、心配のないことも、快楽の源であり、観想も、哲学も、天球法則の発見も、まさに精神的快楽をもたらすものである。そして、精神の快楽と身体の快楽は不可分であるので、死ねば終わりであり、何も残らない。だから、死ぬまでは、唯一の善、すなわち、快楽に集中すべきである。この後に、約１６２頁（少ない）の第三巻で、来世快楽礼賛のキリスト教的快楽説が展開されるのだが、上記の強烈な弁論のあとでは、説得力が弱い。分量的にも、高揚感においても、論理、リズムにおいても、ヴェージョの快楽論が圧倒しているといえるだろう（著者も、序文で、卑猥であるが、軽やかに、楽しく書いた、と自白している）一巻、二巻の主張の具体内容を少し書く●メラネオス王はパリスに、一か月でも、妻ヘレネをレンタルしてやるべきであった。そうすれば、ヘレネ略奪はおきず、トロイア戦争で大勢の英雄が死ぬことも、トロイアが滅亡することもなかっただろう。●修道女の処女は、処女性を守りぬくために、心も身体もさいなまれ続けている。処女性の押し付けは、あらゆる残酷さを越えている。正しい言行は処女を望むものにはそれを妨げず、のぞまない者には強制しないことである。●なぜ祖国のために死のうとする人がいるのか理解できない。本人は、死ねば、全てが消えてしまうのに。広大な領土を獲得するのは祖国であって、本人ではない。（たとえ祖国が消滅しても）自分の故郷から離れて暮らす方が、暮らしやすいこともある。なお、本書には、おなじみの古典からの引用も多く、その点も楽しい。一番多いのはウェルギリウス「アエネイス」であり、次は、たぶん、ルカーヌス「内乱」とオウィディウス「恋の手ほどき」である。